(2000.07.20更新)
岡田真美子の宗教人間学
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第10講
衣食住の宗教生活環境学] 

2000/6/26講義

  (1)食について


HP作成担当(*代表者)

高野 智子、高見 幸代、 西村 泰昌、原田 亜規子、*藤沼 真介



[本日の課題]

      ★ トピックス - 1.肉食について 1.1 出家者グループへの社会の影響
                                                    1.2 食べてはいけない肉
                                                               1.3 薬としての食べ物
                                                               1.4 ヒンドゥーの影響と大乗仏教

                             2.草木観の変化

                             3.ローカリティーと食生活
                                                    3.1 残酷の概念
                                                    3.2 ローカリティーと食生活と宗教
                                                              3.3 「御馳走」と「贅沢」の意味

                             4.もう一度  日本の食生活-

      ★経典を読む:食法じきほう食前の祈り



[参考図書]
●岡田真美子(1999)「仏教における環境観の変容」『姫路工業大学環境人間学部 研究報告第1号』 pp.105-109

●鯖田 豊之(1966)『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』中公新書92



はじめに:
 先回は《さとり》のこころの修習が、わたくしたちが環境に向き合うときのこころのあり方、同一環境内における他の存在をどうみるかということに対するひとつの訓練となる、ということを学びました。

最後に、さとったひと、ブッダは仏教でなくてもいるという仏教の独覚という概念を紹介し、その例としてLand Ethics のアルド・レオポルドを取り上げました。

その2日後、NHKTV『野性発見の旅 ― オオカミとティモシー・ハットン』という番組がありました。

オオカミの達人といっしょにオオカミを観察しつづけた主人公が、オオカミの島を去る日に初めて「遠吠え」し、それに オオカミの一家が「吠え返した」最終場面は深い感動を覚えるものでした。(この場面は7月13日の「ゆりのき自主講座」『岡田真美子が語る一人勝ちの危険』でお見せするつもりです。)

本日と次回前半は、衣食住の生活環境学と題して、人と草木とのかかわりを考えて見たいと思っています。さしあったて、今日は「食」を取り上げます。


それに先だってまず、ヴェジタリアンに関して皆さんの意見を聞いてみたいと思います。
{フリートーキング}なぜ肉食が避けられるのでしょうか?
【− 環境人間学部の周囲の人には菜食主義者はいないことがわかる。】



1.肉食に関して

 まず1では岡田行弘が神戸女子大学瀬戸短期大学1999年12月8日学術懇話会で発表した「仏教の食物観とその思想的背景―インド仏教を中心として―」を参照しつつ、肉食の問題をお話しします。
少し前の時代まで、お坊さんは肉食をしないものとされ、これを破るものは「生臭坊主」と呼ばれ、尊敬されませんでした。生臭い魚を食べるところから来ている言葉です。

しかしこれはずっと昔のゴータマの時代からの風習ではありません。いつごろから、なぜそうなったのか、それから見てゆくことにしましょう。

1.1 出家者グループへの社会の影響

 出家者とは、信者から衣食住を布施してもらうという形で生きていく、つまり一般社会の恩恵を受けて物質的な生活を維持する存在です

仏教発祥のインドでは、出家として生きるためには、既に社会一般の通念としての出家の常法とそれに基づく生活の方式が確立していて、出家者はこの要請に応じた生き方をすべきでした

したがって食事、とくに肉食の是非をめぐっては、仏教教団は社会的状況の変化を強く受けたのでした。
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1.佐々木閑(1999)『出家とはなにか』大蔵出版 p.27.同書の第7章「僧団と一般社会の関係」において佐々木氏は、初期の仏教教団の理想の根底には「一般社会との共存」という理念あることを確認して、極めて的確に次のように締めくくる:
「僧団が一般社会の要請を受け入れつつ、しかも自分達の独自性を保持していくために必要とされるのはすぐれたバランス感覚であるという点である。仏教の核心として絶対に変更が許されない点は何か、社会との関係において変更すべき点は何か、というレベルの違う二つの視点を正確に把握し,両者の混同を避けつつ修行の場を守っていくという態度が重要なのである」(176-177頁)。

2. 佐藤密雄(1963)『原始仏教教団の研究』山喜房仏書林 pp.56f



1.2 食べてはいけない肉

 「与えられたものを満足していただく」というのが、仏教者の食事に対する基本的態度です。

布施を受ける側、すなわち仏教者側から食事に対してあれこれ注文をつけたり、タブーを設定したりすることは、原則としてありませんでした。(但し、修行僧たちのためにとわざわざ屠殺することは拒まれていました。)

ただ食べることが禁止されている肉はありました。

各部派で共通に禁じられているのは、人肉・象肉・馬肉・蛇肉です。余談ですが、象の肉に怖い病原菌がいることは、筒井康孝が書いています3

さらに犬・ライオン・虎・豹・ハイエナ・熊なども禁止の対象です。このことは、それぞれの部派が勢力を持っていた地域の食習慣が反映されていると見ることができます。概して、牛肉・豚肉・鳥肉・羊肉は共通して許容されていました。

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3.  『狂気の沙汰も金次第』新潮文庫



1.3 薬としての食べ物

 仏教においては、すべてのすべての食物を身を養う「薬」として受けます4  。修行僧は布施として得た食物は貯蔵しないで、その日の午前中に食べることになっています。これが「時薬」でと呼ばれるものです。
また正午を過ぎた後でも、ジュース類を取ることは許されています。

また健康な修行僧は、美食、すなわち栄養のある食物を求めてはならないという規定があります。ここで美食とされるものは、魚・肉・乳・酪(チーズ)などです 5

これらの栄養のある食物は、病比丘の薬としてはゆるされていました。

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4.  平川彰『二百五十戒の研究II』(著作集第15巻、春秋社、1993年)432頁。
5.  平川前掲書(注7)438頁。


..
★担当者: 原田 亜規子のノート★ 
 仏教はインドで生まれたので、食べてはいけない肉の中に象肉があるのはインドらしいと思った。象を食べるとはよっぽど肉に飢えていたのだろうか…と不思議に思った。
【岡田】歴史的に 人間はあらゆる動物の肉を食べられるかどうか試してきたはずです。

また、犬が死体を食べるということは驚いた。【犬は肉食です。何の肉と分けず食べます】

仏教やヒンズー教などの宗教において肉を食べることは好まれないようである。

しかし、このことはその土地土地の向き不向きに関係があるので、一概に「肉を食べない」ベジタリアンがいいとはいえないことがわかった。(3、ローカリティーと食生活の話と関連してこう思った。)

この授業を受け、今まで宗教について誤解していたことがたくさんあったことに気がついた。また環境や人々の生活に対する考え方が変わった。

..
★出家者グループへの社会の影響
 ・「肉食」は、一般には「にくしょく」と読む。しかし、仏教用語では「肉食」を「にくじき」と読む。

 ・出家者とは、信者から衣食住を布施してもらうという形で生きていく(佐々木)。つまり、お坊さんは「こじき乞食」である。

※ お坊さんは「びく比丘」とよばれる。「比丘」とは、、「bhiksu」を音写した言葉で、「食べるものをを求めるもの」という意味である。

「食べるものを求める」つまり、食を乞う(こつじき乞食)人はこじき乞食である。お坊さんは「こじき乞食」と同じ言葉であらわされた。

 ・ ゴータマのころ、出家者は信者からご飯をもらっていた。


★食べてはいけない肉

 ・ お坊さんが食べてはいけない肉に「犬肉」がある。「犬」は死体を食べるので不浄の生き物とされているからである。

 ・ 日本では少し前までお坊さんは肉を食べなかったが、今では肉や魚を食べるようになった。しかし、肉や魚を買いに行くことをためらうようである。

 「ベジタリアンについて」

文化環境クラスでは,ベジタリアンはいなかった。また自分の周りにベジタリアンがいるという人もいなかった。

★薬としての食べ物
 ・ 仏教においては、食物を「薬」を摂取するつもりで食べた。

 ・ 布施としてもらった食べ物は貯蔵してはいけなかった。

 ・ 修行僧は布施として得た食物は貯蔵しないで、その日の午前中に食べることになっている。これを「じやく時薬」という。このことは、貯蔵しない=慾を出さない、という効果の他、暑くて食物が腐りやすいというインドの風土にも関係あるだろう。

 
[1〜1.3担当:原田 亜規子]




 
1.4 ヒンドゥーの影響と大乗仏教

では、なぜ出家者は肉食をしないものとされたのでしょう?

― 実は、上で述べたような伝統的な比丘の食事規則は後になって一変したのです。

それは意外なことに、大乗仏教がもたらした変化でした。

四世紀から六世紀にかけて成立した中期の大乗経典のいくつかは、肉食の全面的な禁止を説くようになります。

その背景には、この時期、従来のバラモン階級を頂点とする身分制度が強固なものとなり、ヒンドゥー文化が日常生活・社会生活の隅々にまで浸透するようになったという事情があります。

その際、特に浄・不浄の観念が生活を規制するようになったのです。

以前「浄不浄」のところで、少しお話ししたように、インドで最上の身分とされるバラモン階級はもっとも浄らかであるとされます。

そこにインドの苦行主義も影響して、彼らは肉食をしないものとされました。
 
 仏教はこのようなヒンドゥー社会の影響を当然受けたと考えられます。

このような時代的状況に対応する形で、従来容認されていた肉食を全面的に禁止したのが『涅槃経』でした。

この涅槃経がヒンドゥーの影響を受けていることを表す証拠があります。

仏教は本来、ヒンドゥー的な浄・不浄の意味付けを行わないものです。カースト制を否定した宗教です。

ところが『涅槃経』は、カースト制の確立したヒンドゥー社会の価値を認める態度を持っています

そのような社会を支持層とする『涅槃経』は、肉食を禁止すると共に、食器に肉が触れた場合、その浄化法として「水で洗浄する」という方法までも明記しているのです  。

 さらに仏教においてはこの時代、すべての衆生(生命を持つもの、ただし植物は除く)は仏になる可能性を持つという思想、すなわち如来蔵・仏性思想が顕著となってきます。この思想は、すべての衆生に仏性(仏になる因)が存在していることを認めます。


 

これまた、インド哲学のアートマン説の影響を感じるものです。

1年生のときに、総合講義で梵我一如の話しをしたのを覚えてらっしゃるでしょうか?

インド哲学では、われわれは等しくアートマンを有し、それは宇宙の最高原理であるブラフマンとひとしいものだ、と考えます。

マンデルブロ集合を用いてこれを説明しました。

 この考え方によると、仏性は自分にも、また他の生き物にも具わっているから、生き物を食べるということは、その仏性を食べるということになるのです。

かくして仏性は自分自身の成仏の根拠であるのと同時に自分以外の生き物に対する慈悲の心を持つという理由にもなります。
 

 大乗経典の中で最も詳細に肉食の禁止を説く『楞伽経』は、次のように述べています。

それぞれの生存において、一切衆生が親族、眷属であるという想いを抱き、一切衆生を一子の如く思うことを修行するために、慈悲を本質とする菩薩は一切の肉を食すべきではない。
このように肉食禁止の背景には、インド古来から厳然として続いている輪廻の考え方とアートマンの思想がありました。

そしてこれらの大乗経典は中国・日本にも大きな影響をあたえたため、肉食の禁止も広く知られるところとなりました。

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6.  「肉の出所および生き物の殺害と捕縛のことをよく考えて、いっさいの肉食を断つべし。」(マヌ法典、5.49)という肉食禁止の規定が設けられた

7.  下田正弘『涅槃経の研究―大乗経典の研究方法試論』春秋社、1997年、410頁。なお本書の第四章「大乗涅槃経の社会背景の変遷、第7節付論(二)―肉食の禁止」は、前注4の下田論文を改稿したものである。インド仏教における肉食の問題を考えるうえで必読の研究である。

8.  下田、前掲書(注10)、411頁。

9.  下田、前掲書(注11)、413頁。




2.草木観の変化

 肉食が生きとし生けるもの(衆生)に対する慈悲心という理由で禁止ということになると、修行者や仏教信者は生きとし生けるものでないものを食べて生きて行かなければなりません。

しかし、実は、すべての食物エネルギーは、元をただせば生き物です。生き物は、生き物を食べることからしか、生命を維持するエネルギーを得ることはできないのです。

そこで、トリックが用いられました。生き物(衆生)を2種類に分けるのです。意識のあるもの(有情うじょう)意識のないもの(無情/非情)に。

古代インドでは植物に五感があるとされているし、初期仏教では植物は知覚のあるものに分類されています。部派仏教に入っても触覚ある一根(根=感覚器官)の衆生とされていました。

それが、大乗仏教になって、無知覚の、すなわち痛みは感じないものにされ、瓦石と同等に並べられるようになってしまいます。

これは、肉食禁止の影響であると思われます。10

こうして、人は心の痛みを感じずに植物性食物で身を養うことができるようになったわけです。

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 9.  下田、前掲書(注11)、413頁。

10.  岡田真美子(1999)「仏教における環境観の変容」pp.105-109
         この論文はhttp://www.hept.himeji-tech.ac.jp/ ~okadamk/research_reports99_03_10.htm で読むことができる。
 
 


(★担当者: 西村 泰昌 ・ 藤沼 真介の感想と調べたこと★ )

 ★ヒンドゥー
 ヒンドゥー教は、バラモンが最高の存在、階級として君臨すると共に、内容的には、先住民族の宗教観念を大幅に取り入れて、バラモン教から発展していった宗教です。
    【岡田真美子の補足】
・Hindu とは− 「 インダス川の彼方に住む人々」ということでヨーロッパ人がつけた呼び名です

・Hinduism は  永いインドの歴史の中で培われた生活様式、社会習慣の全体 に相当します。開祖・予言者・唯一絶対の聖典はありません

・きわめて寛大な宗教 =常に異質なものを吸収同化して現在に至っています。


 ★アートマン
 インド哲学の重要な概念の一つで、atmanは「我」の意。

元来は気息を意味する語であったが、転じて生気、身体の意となり、哲学的には自我、霊魂を意味する術語とされた。

非人格的な世界の根本原理の名称であるブラフマン(梵)と対になる人格的原理をさす。


 ★梵我一如
「梵」とは Brahmanの音を写した言葉(音写語)で、神秘的な力、宇宙の最高原理。 
 「我」とは atmanの意味を取った訳語で、個人のうちに宿る自己の本体 。
 「梵我一如」とは 小さいながらも神と同じ考えを持っているという考え。絶対のものは、我々自身の存在のうちにある。
         └→「自己の本体は大自然の本源と同じである」(ウパニシャッド)

★輪廻転生
 別の肉体への生まれ変わり信仰;かつて(別人として)生きていて、死後も別の肉体で生きるとする信仰。

 
[1.4〜2担当:西村 泰昌 ・ 藤沼 真介]


 
3.ローカリティーと食生活

 3.1 残酷の概念

 それで思い出すのが「残酷」という言葉の定義です。

欧米人は動物を殺すこと自体は決して残酷だと思っていない、残酷なのは不必要な苦痛を与えることだ、という考え方であるといいます。

これに対して、日本人は動物愛護というと、動物を人間と同じように扱い、動物を殺さないことであると考えているようです11

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11.  鯖田 豊之『肉食の思想』pp.55f



3.2 ローカリティーと食生活と宗教

   こういう感じ方はそのローカリティーの違いからきています。

   日本ではそのように獣を遇しても、充分植物性食料で生きてゆくことができます。

また、穀物を作って人間が食べるほうが、牧草を生やして家畜に食べさせてその肉を食べるより、ずっと効率がいいという土地柄です。

 鯖田の本はそんな日本において畜産が奨励され出したころに書かれており、それに対する危機意識が随所に窺われます。

鯖田は 日本のように土地生産力が高くない欧米は却って牧畜に適したところであるから肉食をするのだとしています。12

考えてみれば、日本人は、肉食を戒律で禁止されても、食べ物には大して困らなかったと思います。

逆に、日本で肉食が中心になって、耕地を牧草地に転換して行ったらとんでもない環境破壊になります。


   しかし、エスキモーのイヌイットたちに、「アザラシを殺すのは残酷である。米を食べなさい」といってもまったく現実的ではありません。彼らがどうやって穀物を栽培すればよいというのでしょう。

 このように、食べ物にはその土地土地の向き不向きがあり、それを文化や宗教がしたささえしています。タブーもおそらくそのローカリティーがもつ科学的な理由が隠されていることでしょう。


 450年ほど前に来日したフランシスコ・ザビエルは日本についてこのように言っています:
「日本人は自分等が飼ふ家畜を屠殺することもせず、また、食べもしない。

彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。

但し彼等が食べる草(=野菜)は豊富にあり、また僅かではあるが、いろいろな果物もある。

それでゐて、この土地の人々は、不思議なほどの達者な身体をもって居り、稀な高齢に達するものも多数居る」(アルーペ神父)13


 日本はこのように「食べる草」に恵まれた国であることに感謝しなければいけないのでしょう。

だから、食用植物を収穫することのできる耕地を、わざわざ飼料作物を栽培して肉食を常とすることは、「贅沢」とされ、共に労働する家畜を食用に屠殺することも「残酷」として避けられたのだと思われます。


   逆に、キリスト教の起こったユダヤの地や欧米は、日本のように「食べられる草」に恵まれた国ではありません。

今イスラエルでは一生懸命灌漑をして、つまり人工的に水をやって農業をしています。しかし、この国もかつてはそうではありませんでした。

狩猟採集時代のイスラエルの野生エンマ小麦は、中世のイギリス小麦の収量に匹敵したと言われています。 また、栄養価も栽培種より遥かに優れていたそうです。

このような国では灌漑農法をやると土壌浸食や、深刻な塩害の起こる危険が大きいのです。

遊牧民たちの生活スタイルはそれで大変に意味のあったものでした。

一概に、キリスト教は 動物は人間が食べるために神が作ってくださった なんて御都合主義なことを言って肉食をしている」などと非難することはすべきではないでしょう。

アリストテレスが『政治学』のなかで、植物は動物のために存在する、としたのも、一見するととんでもない、と思えますが、家畜が人間が食べられない草を食べて有用の肉や乳製品をもたらしてくれるのを感謝していったのかもしれません。


 イスラム教で豚を食べないということを、今回こう言った観点から考え直してみるとなかなか意味があることなのかしらと思えてきました。

豚というのは、直接人間と食料が競合する動物なのです。

ですから、人間が食べられない草を食べて有用の肉や乳製品をもたらす羊、山羊、牛などに比べると、家畜化も遅れました。 14

森林破壊、土壌浸食の進んだ土地に広がったイスラム教は、「食べる草」を人間と同じくする豚を食料として多く飼うことを禁じたかったのでしょうか。15


 このように考えてゆくと、菜食が慈悲深い食生活であるということは簡単に言えないのです。

菜食には菜食の悲しさと残酷さと、土壌浸食をはじめとする環境破壊があり、肉食は肉食の悲しさと残酷さと、森林破壊をはじめとする環境破壊がつきまといます。

要は、その土地その土地にふさわしい伝統的な食生活があるということです。

それはおのずとその地域の適正人口を定め、その範囲で暮らす人々は環境に負担をかけず、かつ自らの身体にも健全な食生活であると考えられるでしょう。

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12.  ibid.pp.33ff
13.  ibid.p.19
14.  ポンティング『緑の世界史上』pp.76-77
15.  逆に、穀物収穫の早かった中国では、豚やトリのほうが早く家畜化された。
 
 


★担当者: 高野 智子の感想と調べたこと★ 
 日本人と欧米人の「残酷」の概念がこんなにも違うということに驚いた。

私の実家では犬を飼っているが、家の中で放し飼いにしていて、食事をするのも、寝るのも、こたつでくつろぐのもすべて家族と一緒で、人間のような扱いを受けている。

日本ではこういった家庭も多いと思う。

しかし、犬にとって人間と同じ生活というのは健康に悪いらしく、例えば人間食は塩分が多く生活習慣病にかかる犬が増加しているそうだ。

自分の飼っているペットが病気にかかったら日本人の飼い主は病院に連れて行き、手術をし投薬をし、必死で延命治療をするだろう。

しかし、欧米人は「苦しんでいるペットを生き続けさせること」のほうが「残酷」であると考え、ためらわずに「殺す」ことを選ぶと学んだ。

欧米人から見れば日本人の行為は「残酷」に見えるのだろう。文化や宗教が違えば、こんなにもとらえ方が変わってくるのか。


 ★残酷
 人や動物に対して思いやりがなく、平気で苦しめる様   大辞林 第二版より
欧米では動物を「殺すこと」は「残酷」とはみなされない。

cf.胎児が重い障害をもって生まれてくることが分かった時、その子の将来のことを考えて日本では優生保護法を適用し堕胎することができる。

しかし欧米の多くの国ではそれは「殺人」であるとみなされ、絶対に許されない。欧米では「動物」と、「人間」の間にはっきりと線を引いている。

 「優生保護法」…優生上の見地から、不良な子孫の出生防止と母性の生命、健康の保護を目的とする法律。

1984(昭和23)年制定。優生手術、母性保護のための人工妊娠中絶・受胎調節の指導などについて規定する。    大辞林  第二版より
 

[3〜3.2担当:高野 智子]

 


 3.3 「御馳走」と「贅沢」の意味

 そういう伝統的な食べ物、日常の食べ物でないものを以前は「御馳走」と呼んで、特別なときにのみ食したのだと思います。(御馳走というのは、台所で調理に走り回ることではなく、よい食材を求めて走り回ることです)

ですから、毎日わたくしたちが主な副食として肉を食べるなら、それは「贅沢」であるということになります。コレステロールがたまりやすい体質という肉食に適応しないDNAを持つものは生活習慣病になることも考えられます。

 また逆に、ヨーロッパの寒冷地の人々にとっては、生野菜のサラダ(菜食)などというものは、「御馳走」です。

御馳走の食べ過ぎ、つまり繊維の取りすぎは結腸を起こさせます。彼等の短い胴にある短い腸は 繊維を処理する仕事が得意ではないのです。




4.もう一度  日本の食生活

 復習しましょう。日本人は肉食を禁止する大乗仏教を受け入れて、肉を食べることを敬遠して来たといわれます。

しかし、その教えを受け入れた素地には、我々の祖先が遠い昔から大規模な牧畜をする文化をもっていなかったということが考えられます。

 一方我々の縄文の先祖は10,000万年もの間、完全な雑食でした。

あるものいろいろの食生活で、手に入ればシカやイノシシなどの御馳走も食べ、魚をとり、アクぬきをした様々な野草を食べることが出来、いろいろなものの旬をよく心得ていたようです。(米に頼りだして、まだ2,400年あまりです。)

 たべものをであると考えるのは中国も同じで、これは仏教の教えであると同時に、アジア全般に広がる意識だったのでしょう。

しかるに、岡田の言葉によれば、

現代の豊かな社会に生きる我々は「身体の維持に必要なものを食べる」のはでなく「欲しいものを食べる」ようになった。

そしてそのために食物の生産・輸送・保存に大きなエネルギーを消費し、極めて大きな負荷を自然環境に与えている。

己の生命を維持するために他の生命をありがたい、もったいないと感謝しつつ食すこと。貪らず、無駄にせず享受することを心がけたいものです。
 
 

★担当者: 高見 幸代の感想と調べたこと★ 
 私がこの授業を受けて、“「身体の維持に必要なものを食べる」のではなく「欲しいものを食べる」ようになった”という文を読んだ時、とても心に響きました。

というのも私自身が、栄養価を考えず、自分の好きなものや、簡単に食べることのできるインスタント、レトルト食品などを食べる機会が多くなったからです。

これは私に限ってのことではないと思います。

だからそのつけが来て、今問題になっている高カロリー摂取による肥満や偏った食事をとることにより、昔には少なかった生活習慣病 ex.糖尿病、高血圧などが多くなったと思う。 
 また、同じ食品でも、「質」を問うようになったと思う。

だから、食べ物の生産・輸送・保存に大きなエネルギーを消費し、大きな負荷を自
然環境に与えているという意見には、とても共感しました。

今まで私は、豊富な食べ物に恵まれ、食べる事に苦労したことがないので感謝の念がなく、あって当たり前のものとして考えていたのでこの授業を機に食べ物のありがたさを感じ、無駄にせず感謝して食べようと思いました。 


 ★大乗仏教(だいじょうぶっきょう)について・・・
 小乗仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われません。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教です。大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とします。日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。 
 教えの違いにより「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」とに分かれています。 
 岡田真美子の補足】
但し上記の大乗仏教は大乗側からの一面的な説明であるとも言えます。

伝統 上座仏教/部派仏教にはまた別のすばらしさ、存在意義があります。

●主要国 日本、中国、チベット、朝鮮半島など・・・ 

 岡田真美子の補足】

★以下の説明に関しては、出典を記してください。ある特定の宗派色が感じられるので、要注意。
★大乗仏教での釈迦のあり方 
 大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理とでもいうべき仏陀(宇宙仏)である。 
この仏陀が真理を説き、教えを説く。しかし、宇宙仏は姿、形が無く、そのままでは教えを説く事が出来ない。そこで仏陀が人間である
釈迦に姿を変えてこの世に登場した、と考えられている。 

顕教(けんぎょう) 
 宇宙仏を毘盧遮那仏(ぶるしゃなぶつ)という。この仏さまは姿、形が無く、言葉で教えを説かれる事が無いので、「沈黙の仏」といわ
れている。そこで人々に教えを説く為に人間である釈迦を遣わされた。毘盧遮那仏の教え、つまり宇宙の真理を「如(にょ)」といい、ここからやって来た者という意味で釈迦の事を「如来(にょらい)」という。 
  「顕教」とは教えが言葉で顕されている事からこう呼ばれている。 
密教(みっきょう) 
  宇宙仏を大日如来(だいにちにょらい)といいます。この仏さまは、自ら教えを説かれる事から「雄弁の仏」といわれている。密教は、
釈迦を通じてその教えを聞くのではなく、直接大日如来から聞こうとしたもの。しかし、その言葉は、私たちには理解する事が出来な
い。しかし、本当は、この言葉を聞く受信機を皆持っている。ただ、受信機が煩悩(ぼんのう)の埃(ほこり)で汚れている為、教えを聞く
事が出来ない。埃を払い、心を清めて研ぎ澄ませば、教えを聞く事が出来るとしたのが密教である。
「密教」とは、なかなか聞く事の出来ない秘密の教えという意味である。 
[3.3〜4担当:高見 幸代]


★「経典を読む」

食前の誓い(食法じきほう)
天の三光に身を温め、地の五穀に精神たましいを養う、みなこれ本仏の慈悲なり。

たとえ一滴の水、一粒の米も功徳と辛苦によらざることなし。

われらこれによって心身の健康をまとうし、仏祖の教法おしえを守って四恩に報謝し、奉仕の浄行を達せしめたまえ。

いただきます。



この講義の後、受講者の森元さんから、もうひとつ別の食法がメールで寄せられましたので、ご紹介します:

「我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵によって  この清き食を受く、
謹んで食の来由をたずねて 味の濃淡を問わず、その功徳を念じて 品の多少を選ばじ、
いただきます」 (食前)

「我今この清き食を終りて、心豊かに力身に満つ、 
 願わくはこの心身を捧げて己が業にいそしみ、 誓って四恩に報い奉らん、
ごちそうさまでした」 (食後)

これは比叡山の三宝莚におられるカヤキカンショウさん(すいません漢字が分かりません)から教えて頂きました。 



 賢明女子短大の大坪先生にカトリックの食前の祈りを教えて頂きました:

    1.旧式
     主、願わくはわれらを祝し、また主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。
     聖父(ちち)と聖子(こ)との御名(みな)によりて。アーメン。

     2.主よ、この食事を祝福してください。体のかてが心のかてとなりますように。今日、この食べ物にこと欠く人にも必要な助けを与えてください。アーメン。

     3.主よ、わたしたちを祝福し、また、おん恵みによって共にいただくこの食事を祝してください。主キリストによって。アーメン。
     この食事をととのえてくださったすべての人々のために。

     4.子どもの祈り
     イエズスさま たくさんのごちそうをありがとうございます。おおきくなるため、なんでもたべます。たべるもののないひとも たすけてください。いただきます。


okadamk@hept.himeji-tech.ac.jp。。次回へ

 

copyright(c) 2000  Prof.Dr.Okada Mamiko